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(1995年のころ)
農家地帯は「区」に分かれています。住んでいた「区」で「若妻会」なる会がありました。その名の通り「若めな妻が入る会」です。私は入れないと思っていたら、入れとのことでした。その後「フレッシュミセスの会」に名称変更しました。そのほかにも「婦人会」(若めではない妻が入るようです)や「子ども会」など各世代に分かれての会があります。茶話会やおまつり、「みそづくり」などの活動がありました。でも思ったほど濃厚なお付き合いはありませんでした。住んでいた区の中には農家ではない住宅地が含まれていたからかな。 「お葬式」 大滝村のYさんが「いなかの一大イベント」と言われていましたが、とても驚きました。 第一報が区の全家庭に連絡されます。奥さんたちに召集がかかります。「お手伝い」をするのです。主に「お料理」のお手伝いです。お通夜と告別式の後のメニュー決めから始まって、食材の買出し、料理作り、さらにお接待、すべてみんなでするのです。メニューも「おでん」のようなものやお味噌汁です。お香典返しには農協で売っている「お葬式セット」が配られますが、「かんコーヒー」や「キャラメル」も入っていたようです。 今でも地方ではこのようなお葬式をするところもあるようですね。私は祖父母のお葬式出席などの経験はありますが、お手伝いの人が来たとしてもお料理はしていませんでした。仕出しを取るし葬儀屋さんにすべておまかせでした。 「自衛隊」 近所には大変有名な訴訟の舞台となった自衛隊の基地があります。自衛隊はたいへん身近な町です。あちこちで隊員さんたちがマラソンの練習?をしているし、普通の車にまじってしょっちゅう装甲車などが走っているし、時々畑の上を戦闘機がとびかっています(かなりうるさいです)・・・・・・町を見下ろす丘の上には訴訟のもととなったミサイルがシンボルのように見えています。(2007年撤去されました) 保育園の遠足が自衛隊の山だったこともあります。展望台のように見晴らしがいいところでした。北海道には自衛隊が日常的に多いんだなあと思いました。雪祭りでも活躍していますね。 |
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「農家のお昼ごはん」
1995年、夏 研修先メロン野菜農家さんは、昼食を毎日出してくださいました。ご家族と一緒に食事をさせていただいたのです。こちらではどの「でめんさん(農作業のアルバイトに来る人のこと)」とも一緒に食事をするのだそうです。その豪華な昼食にはとても驚きました。まるで旅館の夕食のお膳のように何品もの料理が並ぶのです。こちらの農家さんではおばあちゃまが作っておられましたが、とても大変だと思います。内容は「魚の漬け焼き」が多かったです。農協で漬けた魚を売っています。 昼食のあとはお昼寝をします。 「農家のおやつ」 畑で作業をしている途中、「おやつ休憩」があります。内容は「パン」が多かったです。基本的にこちらの農家さんでは「パン」は食事ではなく「おやつ」という感覚だそうでした。 「農家のパーティー」 お誕生日や新年会にはごちそうをしますが、それはほとんど「お寿司」のようです。 ステーキやお肉はめったに食べないそうです。 なお、散らし寿司のことを「ナマチラ」というとは初めて知りました。 「収穫物」 農家さんはたくさん収穫物をくださいました。きゅうりやナスやピーマンやかぼちゃ、とうもろこし、にんじん、じゃがいも・・・・・・ どれもが驚くほどおいしかったです。 それまで食べていたものと全然味が違いました。これが「北海道の味だ」と感動ものでした。 |
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1995年、夏
私たちはなぜか農業をする! と決めていましたがまったくの素人が農家になるには、約2年間の農業研修をしてからでないと新規就農できません。そこで移住前に夫はNさんの果樹園、私はNさんの紹介でとあるメロン園で研修させてもらう手続きをしていました。当時3歳の息子は保育園に入所。このようにかなり順調に準備万端を整えて私たちは町の正式な農業研修生として研修費をもらって生活することになりました。 その年の夏から秋まで私はメロン農家へ農業研修に行きました。 それまで体を使う仕事はもちろんしたことがなく、お箸より重いものは息子くらいしか持ったことがなく、野菜はスーパーで売っているのしか見たことがなかった私は、生まれて初めて農家という人々に接し、農作業というものをしました。 メロン農家さんは最初に私をたいへん「細い」と思ったそうです(今ではそうは言われないでしょ)。 最初、とても広く丘のふもとのきれいな場所で、風はさわやか、空気は澄んでいて、こんなところで仕事ができるなんて、なんてすばらしいことなんだろう、とメロン農家さん一家をうらやましく思ったものです。 私の主な仕事は朝8時半ごろから夕方5時まで。(もちろん農家さんはもっと早朝から仕事をしていますが私は3歳の子供を保育園に預けてから行くので) 最初にしたのは「ナス」の苗を支柱にテープでとめる、という作業でした。作業自体は全然難しくありません。ただ量がとても多かった。それ以後の全部の農作業に共通するのは、「量」が多く「スピード」が求められる、というものでした。 「草取り」が最も多い仕事でしたが、草と農作物の区別がつかない私はたいへん困り、いちいち聞きに行きました。たぶん農家さんも困っていたと思います。 あとはとうもろこしやだいこん、はくさい、にんじん、かぼちゃ等野菜の植え付けや間引き。 メロン、いも、かぼちゃなどの収穫、選別などなどさまざまでしたが、「研修」というものの、農業やメロンについては何も教えてもらわず、ただ作業のお手伝いをしていました。 そして、農作業は「スピード」が最も大切で、一度も立ち上がらず、座らず、つまり中腰のままできるだけ速いスピードで同じ作業(草取りとか間引きとか)を畑の端からはしまで連続して行ったりきたりして行うものであるということがわかりました。 もともと体力もなく、いつも「遅い! 」と言われてばかり、1日が終わって帰宅するともうフラフラでした。 今から思えば、私ってなんてえらかったんだろう、と我ながら感心・・・・・・ そして、なんでこんなことしていたんだろう、という疑問・・・・・・ |
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「そして北海道へ」
1995年7月。私たちは北海道夕張郡長沼町民になりました。 住居 家は、当初町役場から町営住宅を薦められました。 町営住宅とは町の中心部にある平屋4戸続きくらいのアパートのようなもの。狭いけれども家賃は安いし便利だしそこが無難な選択なのだろうが、それは私たちが北海道に対して持っているイメージとはかけ離れたものでした。 北海道に来たからには広い風景の中の一軒家に住まなくては! と大胆なことを言い、研修先のNさんが知り合いの家を紹介してくれました。 それはもとは普通の農家だったのを農業法人が買い取ったもので、10町(10ヘクタール)ほどの農地の中の大きな一軒家。法人はその家の一部屋を事務所として使っているもののあとは空いているので住んで良いと快諾をいただきました。しかも格安の賃料で。 このように突然関西からやってきた見ず知らずの家族に、Nさんや法人のかたは大変親身になってくださいました。 その家は町の中心から離れた山手。起伏のある農地で大きな木がたくさん生えており小川も流れていました。 土地の高いところからは、町から札幌のほうへと広がる平野が見えるすばらしく素敵な場所でした。さっそくあたりを散歩してこの風景を見たとき「本当に来れたんだ」としみじみと実感したものでした。 家はとてもとても古く、青いトタン屋根、モルタルの壁、黒っぽい木の板の壁、木枠のガラス窓、ステンレスの浴槽。古いというよりは・・・・・・ でもどこかに「トトロの家」のような雰囲気がありました。 違いはそこに10トントラック2台がやってきて引越し荷物を降ろしていったこと。うちはたいして高級な家具を持っていたわけではないのですが、物は多いしバブル最盛期に買ったベッドやテーブルやソファはとにかく大きくなんだかあまり似合いませんでした。 |
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ブルーベリーを作ろうと思いついたのは私で、5月はじめに北海道下見へ向かうフェリーの中ででした。
以前からお菓子作りが好きだった私、加藤千恵さんの本「ティータイムケーキ」を見ていて、ブルーベリーやベリーがたくさんのったケーキ、ベリーの森、木漏れ日のティールームといった風景がビジュアルに頭に入っていました。そうだ、ブルーベリーを作ろう! とあっさりと決めました。 そうなると、掴み所のなかった移住問題も形が見えてきました。(ような気がした。) ブルーベリーを作るにはブルーベリー園を見に行き、話を聞くことです。 まず果樹の町、仁木町へ行け、というアドバイスを受け、仁木町役場に電話をしてとある農家さんを紹介してもらいました。そこで初めてブルーベリーというものを見るました。 いろいろお話を聞いてここで研修させてもらえるといいなと思いつつ、さらに長沼町でも栽培している農家があると聞いて、さっそく訪問。その果樹農家Nさんはかなり有名なかたであり人格者であると聞きながら訪れると、まずその果樹園の美しさに心も目も奪われてしまいました。これまでにも研修生を受け入れたことがあるというNさんのお話を伺ううちに、その場で「ここで研修させてください」とお願いしてしまいました。 このようにして比較的あっさりと、北海道へのとりあえずの移住の道筋ができました。 長沼町に決めた理由はほかにもあり、それは、大滝村や仁木町に比べ札幌に近いということでした。やはりすぐ行けるところに都会がないと不安でした。 |
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